あかねいろ(30)彼女より朝練?

  

 ところが、そんな風にみんなと約束してみたのだけど、僕はすっかり沙織との朝の約束を忘れていた。 

 月曜と水曜と金曜は、7時44分の電車で待ち合わせているけれど、その時間だと学校に着くのは8時20分くらいになる。7時半に筋トレ始めるには、1時間は早く出ないといけない。

  僕は思案する。

  選択肢は2つしかないように思えた。

 1つは、沙織に1時間早く来てくれないかとお願いする。

 もう1つは、筋トレは断念して、7時44分に乗る。あるいは、そもそも一緒に行くのをやめる、と言うのもあるけれど、それはその時は思いもしなかった。

  でも、考えるまでもなく、筋トレを断念すると言う選択肢もあり得なかった。だから、沙織に時間の調整をお願いするしかなかった。



  家に帰ってから、あれこれとLINEの文面を考える。考えれば考えるほど、うまく伝えられない気がしてくる。どう考えたところで、僕の個人的な勝手な理由な訳で、沙織が1時間早くきてくれるとは思えない。スマホを机に置いて、手を頭の後ろに組んで目を閉じる。


  10月の夜にしては妙に虫の音がする。なんの虫だろうかと耳を凝らしてみるけれど、一向になんの音だかわからない。代わりに、目を閉じた瞼のこちら側には今日の試合のことが映ってくる。試合前の円陣のこと。モールを押されているときに、何もできずに立っていたこと。残り時間を見ながら、あと何分あれば逆転できるか、そればかり考えていたこと。もっとできたこと、もっとやるべきだったこと。


  虫の音に混じってスマホの通知がなる。どこか不安げに通知音が響き渡る。

  僕は恐る恐る画面に目を向ける。そしてLINEを開き、沙織からのメッセージを見る。

 『今日はお疲れ様。声もかけずに帰ってしまってごめんなさい。また試合を見にいきたいな』

 絵文字もないし、顔文字もないその文面は、僕には不思議なくらい何も語りかけてこなかった。あまりにも平べったくて、のっぺらとしていて、無機質な近代アートの材料のように感じられた。

  僕の感じていることと、彼女の感じていることはまるで違う。当たり前のことだけど、そのことを強く強く感じる。そこには、海底1万メートルでも足りないような溝がある。その溝は、今までも当然にあったのだけど、そんなことには思いもよらなかった。初めての彼女だったこともあるし、僕はあまりにも「僕がどう感じるか」ばかりを気にしていた。肝心の彼女がどう感じているのか、そのことに対しての思いがほとんどと言っていいほどなかった。いや、そうではない。僕は、彼女がどう感じているか、どう考えているかを、僕なりにしか考えていなかった。経験も知識もない僕の頭でだけ考えていた。それで、ある程度うまく言っていると思っていた。

  しかし、彼女のメッセージは、あまりにも無機質で、冷たく、突き刺さった。言葉だけ見ればなんでもない文面だけど、そこには決定的な何かがあった。あるいは、なかった。

 『今日はありがとう。酷い試合でごめん』

 ここで少し躊躇する。でも、もう虫の音は聞こえてこない。

 『みんなと話したんだけど、来週からみんなで朝練することにしたんだ。朝がだいぶ早くなる。だから、ちょっとしばらく朝は一緒に行けないと思う』

 あれほどあれこれ考えた割には、打ち始めたら思いの外さらっとメッセージが浮かんでくる。

  普通はもっと、ことの成り行きや事情、僕の思い、みんなの想いを説明して、だからこういうふうにしたいんだ、というべきだと思う。それはわかっているのだけど、どうしてか、この時の僕には、このメッセージが一番ふさわしいように感じた。毎日一緒に行っていたのに、急に自分勝手に一方的にそれをやめるというのが。しかし、不思議と僕の心の中にはためらいのようなものがすでに消え去っていて、ずっと前からこのことが決まっていたかのように感じた。



  彼女から返信が来たのは2時間後くらいで、既読になってからもそれくらいだった。ただ一言 

『わかった』

 とだけ返ってきた。

  僕はその画面をじっと見ていた。

  ゴシック体でフォントサイズが9の4文字は、あまりにも沢山のことを語っていた。僕はできるかぎりそこに込められているメッセージを読み取ろうとした。頭の中には、読解問題の答えとしての選択肢がたくさん並んでくる。ポジティブなものも、ネガティブなものもある。そのどれが本当の答えなのか、その時の僕にはわからなかった。わかるには、あまりにもいろんなことの経験が不足していたし、あまりにも心がラグビーに振れていた。

inokichi`s work(ラグビーとライオンズと小説)

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