あかねいろ(5)野球をやめる時



  その日の帰り道、一人で電車に乗って帰るときは、放心状態だった。

   来ている人たちのレベルの高さ、体の凄さ、経歴の凄さ、そして硬球の痛さ。何と言っても、キャッチボールの時に感じたレベルの違い。その一つ一つが、僕の15年間を否定しにかかっているように思えた。

   僕は野球一筋、野球にかけてきた。そのために犠牲にしたこともたくさんあったように思っていた。けれど、そんなものは、ここでは決してアドバンテージになるようなものではないのだと、思い知らされた。キャッチボールをして、球を受けるたびに、ふにゃふにゃとした力のないボールを僕が投げるたびに、その事実が白日の下に晒されていくように感じた。

   なんと無駄な15年だったことか。なんと意味のない15年だったことか。

   電車に揺れ、背中に入れたボロボロのキャッチャーミットのことを思うと、心が震えてきた。   そう、僕のグローブは、明らかに、集まったみんなの中で一番ボロボロだった。みすぼらしかった。でも、僕のレベルの野球では、用具について贅沢は言えなかった。今のミットは、中1の夏にキャッチャーをやるとなったときに買ってもらったものだった。それ以来、それだけでやってきている。無印のキャッチャーミット。ミズノでも、ゴールドステージでも、アンダーアーマーでもない。「それどこのミット」と言われて答えられなかったときは、本当に恥ずかしかった。

   その、背中にあるミットのことを思うと、無性に親に申し訳なくなった。余裕がない中で、お金のかかるスポーツをやらせてもらていること、決してうちの親は入れ込んで期待をかけてくるという感じではないけれど、それでも、私立の強豪校にも行かせてくれようとしていること、それと自分の今の姿を比べると、いたたまれない気持ちになった。


   気が付いた時には、知らない駅に到着するアナウンスが流れる。外を見ると、降りるべき駅から明らかに先まで来てしまっていた。慌てて僕は電車から降りてホームに立つ。 

   2月の末の夕方は足が速く、16時を少し回ったくらいでも、陽射しは十分に深く赤い。細長いホームのすみにある5個つなぎのベンチに座り、反対側の電車を待ちながら、キャッチャーミットを取り出す。夕陽が当たり、もともと赤茶けたミットが、もっとずっと真っ赤に染まる。僕はその真っ赤なキャッチャーミットをじっと見つめた。ただじっと見つめた。ボールを受ける部分がどす黒く、外側の紐がいくつかちぎれている。これでどれだけのボールを受けてきたことだろう。何回このミットを雑に扱ってしまっただろう。何回、無造作に投げてしまっただろう。大事な大事なミット。僕の分身のようなミット。

   僕は、そのミットが何かを語りかけてくれる、あるいは、僕を励ましてくれるのではないか、そんな思いでミットを見つめ続けた。僕の15年間の時間と汗と努力が染み込んでいるミットを。

   しかし、夕陽がもう少し傾き、冷たい風に宵闇が紛れ込んできた頃に、ミットからの言葉よりも先にやってきたのは上りの電車だった。

   僕は、その電車を1本やり過ごした。そうせざるを得なかった。次の電車は20分はこない。

   しかし、僕にはその20分はあまりにも短すぎた。僕の15年間は、何も僕に語りかけてこなかった。涙すら出なかった。悔しさや、怒りのような気持ちすら出なかった。ただただ、親に対して申し訳ない、という気持ちしか出てこなかった。

   ミットをしまい、次の電車に音もなく乗りこみ、夕方の人もまばらな上りの電車だけど、席には座らず、ドアの横に立ち、リュックを置いて窓の外の西日を見る。西日は明らかに沈もうとしていた。いうまでもなく、確定的に沈もうとしていた。それと同じくらいの確かさで、僕が野球から逃げ出すことも確定的なことのように思えた。 


     次の週にももう一度高校の練習には行ったけれども、特に変わった想いは湧いてこなかった。その日、家に帰ってから、父親に、野球をやめようと思うこと、高校は地元の公立高校に行こうと思うことを伝えた。父は特にあれこれ言わなかった。母親はお金がかからなくて済むのでよかったと、ボソリと言った。特にそれ以上もそれ以下もなく、僕の野球人生は終了した。そして、その時に僕の中ではすでに、ならばラグビーをやろうというのは、新しい確定事項として生まれていた。沈む陽があれば、登る陽がある。僕の中では知らぬ間にラグビーに対する思いがしっかりと萌芽していた。 

inokichi`s work(ラグビーとライオンズと小説)

自分の中には、自分の言葉では表すことのできない自分がいる。でも僕は、その自分を抉り出し、その自分を白日の元に晒さなければならない。あるいはそれは僕自身を破滅に追い込むのかもしれない。しかし、あるいはそれは、世界を救うのかもしれない。 サイトのフォローをいただけると、とても嬉しいです。コメントをいただけると、真剣にお返事します。

0コメント

  • 1000 / 1000